フィリピン、レイテ島にある慰霊碑(2004年訪問時)green-gilbertのご家族、ご親族はお会いするたびに本当に素敵な人たちだなあ、と思う。
幸せなラブコメ映画に出てくる主人公を取り囲む家族、みたいな感じでしょうか。
文字通り平和で、知的で経済的豊かさもあり、新しい家族も増えつつ笑顔があふれる。
green-gilbertのおじいさんが戦時中にフィリピンへ行っていたとは、驚きました。
その後、おじいさんはフィリピンへ戦没者の慰霊碑を訪ねた、と。
green-gilbertのおじいさんは本当に幸せな最期だったと思う。
90歳以上まで生き、苦しむような病気もせず、いつも家族に囲まれgreen-gilbertに手厚く介護してもらい、最期の瞬間も家族が近くにいらっしゃって。
私の父方の祖父もフィリピンへ行ったけれど、彼はレイテ島で戦死した。
私の父は戦前生まれ、兄弟は4人。
当時、国家が何も国民に約束を果たさなかった、保護しなかった時代、兄弟の多い母子家庭には想像通りの生活が待っていた。
私が生まれたのは私の父が42歳の時である。
私は、「もしも理論」をする事はあまり好きではないしそのように考えて何ごとにもいい訳をつけようとする行為は建設的では無いと思っている。
けれども、このたびgreen-gilbertのおじいさんもフィリピンへ太平洋戦争時に行っていたと初めて伺った時、
「もしも私の祖父も戦争を生き抜いていたら・・・」と思わざるをえなかった。
大学生の残ろになって初めて父から父の幼少の頃の話を具体的に聞いた。
当然のごとく我々の今の生活と比べてはならないほどの、過酷そのものであると言える。
戦前は家族とともに豊かに朝鮮で幼少を過ごし、酒蔵を営み幸せに暮らしていたと言う。
(朝鮮国民からすれば立場が逆になるが)
私の祖父が戦死した後は、日本の田舎で貧しく暮らしていた。
父はとても勉強ができる人であったらしい(祖母からよく聞かされていた。成績表まで見せられた事もある)。
それは私が小さい時でも感じ取る事が出来たが、祖父が生きていれば医者になるはずだったようだ(当時としては真っ当な道だ)。
祖父戦死後は、もちろん学校へ行く事は経済的にも不可能となり、父は若いうちに上京。
その後の人生は誰がみても幸せな人生とは言えず、母とは私が小学校のときに離婚し、結局今も一人きりである。
数々の人生における失敗を重ね、今では年金も受給が出来ない状態である。
多少偏屈になってしまった父を田舎の親戚は受け入れない。
一人っ子の私だけが父にとってのたった一つの誇りであり希望である。
green-gilbertの祖父の死で、フィリピンの話を聞いたときに不覚にも思ってしまったこととは、
「もしも私の祖父が生きて日本に戻っていたら、どうなっていただろう」
という事である。
私は幸せな人間である。
両親に愛され、再婚した母の義父でさえ最高にいい人であるし、大学まで行かせてもらい、好きに海外を見てあるいてきた。
私が作り上げて行く「家族」というものは、これから先の事である。
だが、祖父が戦死してからの父の家族の人生と、4人の子供を置いて旦那様に先立たれた祖母の苦労を思えば、「もしも・・・」と思わざるを得なかった。
たとえ一瞬でも。
green-gilbertのおじいさんは生きて日本に戻った。
そしてその周りには心豊かなすばらしい家族が増えて行き、green-gilbertという優しい孫に最期を看取られる人生となった。
どんな人生もその人個人の主観によって大きく見え方も変わるし、進んで行く方向だって異なってくる。
努力や才能があればなおさらだ。
でもそれは現代では通用するが、戦後の日本では自分の意志と努力ではどうにも出来ないものがそこには大きくそびえたっていた。
私の祖母は苦労した。
そして晩年に生まれた私を常に愛してくれた。
私もそんな祖母を心から慕った。
大人になっても、今でも。
2年前に亡くなったとき、私はパリにいた。
高齢だったので多少覚悟して日本を出発した。
祖母が亡くなった日、やはりパリで私は祖母の夢を見ていた。
そして掛ける予定の無かった日に祖母の家に電話をかけた。
そういうのってあるんだと思う。
本当に。
私の祖母にとって唯一慕っていた孫は遠い異国にいた。
でもgreen-gilbertはおじいさんの横にいる事が出来た。
すばらしい幸運だと思う。
孫の世代までかかってしまったが、初めて親族が祖父の元を訪れた事になる。
フィリピンのレイテ島で今でも眠っている祖父の元へ。
2004年に私は単身祖父の元を訪ねる旅をした。
情報源は乏しいものであった。
「レイテ島の日本空軍基地で戦死」
これだけである。
国からの戦死の知らせは至極曖昧なもので、レイテ島に到着した後で日本軍の基地が2カ所あった事がわかり、それのどちらで祖父が亡くなったかについては情報が記されていなかった。
なので両方を訪れた。
レイテ島には観光客などおらず、英語が通じる事だけには心から感謝しながら日本軍空軍基地跡地までたどり着く事が出来た。
それも偶然助けてくれた地元の外務省の方々の親切と、戦後から暮らす日本人女性の助けがあってこそである。
私の祖母が亡くなったとき、
「フィリピンで亡くなったおじいさんとやっと長い遠距離恋愛が終わったんだね」と思った。
私の祖父は未だにフィリピンのレイテ島のどこかで眠っている。
私がそばまで来た事を、会った事の無い祖父は喜んでくれただろうか。
私の父を一番心配していた祖母。
私が付いているから安心してほしいと思う。
でも、やはりgreen-gilbertの美しい家族と親族を見るたびに、「もしも」と、つい思いを巡らせてしまうかもしれない。

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